結局、地上の事も、天の事もどれだけ知りたい、分かりたいと思い、藻掻く人が成長するのだなと。
御言葉を毎日のように聞かせていただいて、ある程度、満たされた波に乗ると、以前は、もうこれ以上は聞かなくてもいいとか、大体わかったという気持ちになりました。
結局、そのような気持ちになるのは、自分のために生きていたからとだと思います。もうそれで必要十分と思ってしまいます。
確かに自分のために生きていたら、ある程度心が満たされれば、もうそれ以上聞く必要はないと思います。
偉そうなことは言えないけど、分かろうとしなくなった時点で、信仰生活から脱落した証拠とも言えます。
だけど、そのように自分中心に生きていたら、結局は恵みは愚か全てのことを失うのだと。
わたしたちの主、イエスキリストを深く知って、世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前より、ずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、「犬は、自分の吐いた物のところへ戻ってくる」また、「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。
ペテロの手紙 第二2章20節~
デッドオアアライブ(生きるか死ぬか)なんて言葉があるけど、正に、信仰生活はそんな感じです。
「ずっと同じレベルでは満足しないと神様はおっしゃっているのだから」
「満たされることは、相当凄いことじゃないですか」
「神様を知ったなら、とことん命がけで神様に近づいていけばいいと思うんですよ。それをみんな中々やらない」
ラプト有料記事VOL.199 求めれば生き、求めなければ死ぬ。より
毎日、自分のためではなく、救いのために命がけで決心して、更に分かるようになると藻掻くことが一生のテーマなのだと知りました。
だから後は、御言葉という形でもらった愛をどれだけ愛で恩返し出来るかにかかっているのだと思いました。
その藻掻きと愛する行為の偉大さを自分のものと出来ますように。そして、それを一生新たにできますように。