もらえる事が当たり前になってはいけない  ~結局、軽々ともらえても価値性を悟れないから御言葉を足蹴にする ズレる~

中心者の御言葉に聞き従うと当然良い事が立て続けに起きます。

そうなると、段々御言葉にフォーカスが行かなくなり、良い事を起こすために御言葉に聞き従うようになりました。

 

つまり損得勘定で神様を愛するようになったのです。だから、それは愛ではない。

ご利益信仰。

 

私は十分すぎるほど、神様の愛をもらった。そして、それは中心者の御言葉があったからこそ。

 

断食後の祈りはある意味簡単に聖霊に満たされます。

それは多少の自分が頑張ったのもあるかもしれないけど、基本線としてそれは神様という存在がいて、更にこの御言葉があるから。

だけど、軽々受けられると勘違いしてしまう。もらうことばかりにフォーカスして段々神様の御心からズレていく。

この二つのどちらか一つでも無くなればその瞬間、簡単に受けられていたのが、絶対に受けられなくなる。

 

「中心者が奪いとられたら祈っても神様の何も感じられなくなる」

祈り会2022年7月31日(日)
中心者に神が働きかけることができるのは、中心者が神の考えと心情に一ミリの誤差もなく合わせて生きているからだ。だから、あなたがその中心者の心情と考えに合わせて生きるようになるなら、あなたにも神の力が働き、この地はさらに神の恵みと祝福に満ち溢れるだろう。

 

これを御言葉が宣布されなくなった期間体験しましたが、そうなったら私はおろか、この歴史が終わる。

 

神と言う愛する存在がなくなるから、愛せない。

 

そしたら、この世はまた人それぞれの基準で生きてしまい、荒廃した世の中に戻ってしまう。

 

神と言う基準。

 

厳しいようでいて、結局は、基準、答えがある事がどれだけ易しいか。有難いか。

 

これがわかったなら、ご利益信仰、損得勘定に溺れている場合じゃない。

 

この世のものは塵芥。フィリピの信徒への手紙3章8節~

わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。ヨハネによる福音書8章54節~

 

この世のルールではなく、神様のルール。

 

御言葉がなくなった瞬間、神様のルールに従えなくなる。

そしたら結局はこの世のルールに従わざる得なくなる。この世の人と変わりがなくなる。

 

だから、絶対的にこの御言葉が宣布しつづけていただけるよう、中心者の価値性を悟り、御言葉に喜んで従う大使徒になりますように。

 

感謝を忘れない。御言葉に一筋の心で従う。これが神様と中心者に対する愛。恩返しなのだから。

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