祈りとは、ほとんどの人は、願いを叶えてもらうことだと考えがちです。
しかしながら、信仰生活をしていくうちに気づくことは、祈りとは、神様と対話する時間。愛を成す時間だということを。
愛を成すとは何か? 喜びを分かち合うこととかと一般的にはいうことだが、神様は、愛とは全ての悩みを共有することです。
辛い出来事や、自分のコンプレックス。
今は、成約時代なのです。自分に落胆している暇があるなら、祈りなさいということです。
考えが変わるなら、必ず自分は変わります。そして、聖霊を受けるならどこまでも人間は変わります。
だから、どこまでも聖霊を受けるなら、どこまでも良い方向に人間は変わります。理想の人間になります。
落ち込んでいる暇があるなら、全力で走るべきです。全力で走れば必ず変わるからです。落ち込む暇があるなら、全力で走るべきです。
改めて、ヤコブの手紙を読み、悟らさせていただいたと感じます。愛を感じます。
私の兄弟たち。様々な試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全なものとなります。あなた方の中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすれば与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心ある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
ヤコブの手紙Ⅰ章第2節~
この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。ルカの福音書7章14節~