主のために御心を成す、人類を救う。そこさえズレなければ、どこまでも自分に勝ち続けられるのではないか。

主のために御心を成す、人類を救う。そのために自分に勝ち続けようと思うから、勝て、結果として全ての願いが叶えられ、全てのものが称えられ、自分のことが、愛おしいと思え、いつ死んでも良いと思えるのではないか。

ラプトさんは、言っていた。自分は、いつ死んでもいいと思っている。

そう思えるのは、自分の願いを神様を通じて、叶えてもらって来たから、そして、自分の願いは神様の願いと一致しているから、どこまでも叶えられるわけで。

自分も早くその境地に生きたいし、早く今の自分に満足、今の自分が好きだと思える境地にいかなければならない。

そのためには、神様の御心を成すために、自分の考え、つまりは肉の考えをすて、霊で生きられるようにしなければならない。

自分の考えは、サタンの考え、サタンの考えは、肉の考え、肉の考えは、滅亡しかない。

神様の考えは、霊の考え、霊の考えは喜びと祝福、そして、霊の考えでいきれば、どこまでも自分のことを愛おしいと思え、自分に満足し、毎日を喜びと希望で生きられ、毎日を満足に、そして全力で生きられるのではないでしょうか?

 

引用聖句

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

ガラテヤの信徒への手紙5章16節~26節

持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

マタイによる福音書13章12節

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