人間の期待は重荷でしかないが、神様の期待は喜びと希望でしかない。

神様に出会う前は、よく、「期待している」とか、「期待しているんだよ」とか言われたが、この言葉こそ、信じられなかったし、この言葉を発する人こそ無責任な人だなと感じていた。

一番は、そうやって騙そうとしているのだなと思うようになった。

これは、疑い深いとかではなく、実際にそうなのだと思う。

言っている本人は、騙すつもりもなく、「やる気になってほしい」とか思っていたり、「自分では出来ないから、お前がやってくれ」と言っているようなもんで。

では、実際にその期待に応えたら何になるの?まで、話はしないはずです。

人間自体が愛になっていないのに、その期待に応えること自体が間違いだし、仮にその期待に応えても、予想していた恩恵は受けられないでしょう。

「その期待に応えて、相手が喜んでくれさえすればいいから、期待に応えるんだ!」と思えるならそれでもいいですが・・・・

 

でも神様の期待は・・・ つまり、神様の愛を感じられる毎日を送るなら、今言った

「その期待に応えて、相手が喜んでくれさえすればいいから、期待に応えるんだ!」と神様に対して行うなら、つまり、義を行うなら、それは喜びと希望でしかないでしょう!

だって、神様に対してやれば、やった分だけ返ってくるのだから、こんな幸せなことはないはず。さらに言うなら、やったらやった分だけでは、ないはずです。

それは、人間の頭脳の考えであって、やったら、やった以上のことが返ってくるからです。

なぜ、そんなことが言えるのか?

それは、愛の本体は、神様だからです。愛は神様からしか生まれず、愛は無限だからです。

だから、神様の期待に応えられる、喜びを知りましょう!

 

引用聖句

イエスご自身が、「受けるよりは、与える方がさいわいである」といわれた言葉を思い出すように~ 使徒言行録20章35節

私の名のために命を失うものは、返ってそれを得るのである。

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