信仰の4本の柱を日々立て、悟り、喜んで生きなければ、信仰生活とはいえない。そして、喜んで生きていいのです。

何気なく日々聖書を読んでいると、大事な聖句の意味が分からず、とりあえず読み過ごしてしまうことが多々あるようにことがある。

だけど、その読み過ごした聖句を悟れた時の偉大さ、幸せさを我々は忘れてはいけないし、それを人生の喜びとしなければならない。

 

最近、前ほど、喜びと幸せが感じられないと思う時があった。そういうときは、無理矢理でも断食したりして、喜びを無理矢理でも得ようとしていた。

だけど、それは、文面からもわかるように自分勝手に、自分自身のために信仰しているためで、決して神様のために生きているわけではない。

それでは、世の中の人と変わらないわけで・・・・

 

信仰の4本の柱をまんべんなく立てなければならないと、raptさんがおっしゃっていた。

確かに、明け方の祈りや、朝の祈り会の配信は毎日聞いて、感動しそれを実践していたが、賛美を疎かにしてしまうことが、多々あった。

また、肉体を休ませることが最近なかったと思った。

信仰生活は、やるかやらないか。100%か0か。のどちらかであって、自分も中途半端なことはしたくないから、全力で祈りと御言葉を聞いていたつもりだし、やっていた。

(それでもまだまだ足りないと思っているが)

だけど、喜びで満ち溢れるために、やっている節があった。

それでは、先ほども言ったように、自分勝手に喜ぼうとしてるだけであって、主なる神を第一にしていない。

また、そういう時に、神様に対して、賛美を多めに歌ってみた。喜びに満ち溢れた。

そういう時に以下の聖句が読んだばかりだったので読み返してみた。

「主において、常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」

~フィリピの信徒への手紙4章4節5節~

 

喜んで生きられなければ、信仰生活とは言えない。

そして、喜んで生きられるように、信仰の4本の柱をまんべんなく立て、悟り、解らないことをわかるように求め、学びそれを主の栄光のために実践する人が、喜びに満ち溢れて生きられるのですね。

神は愛。

だから、愛のために生きれば、喜びに満ち溢れるのです。

この文章を書いている時に、ふとこの聖句が浮かんだ。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」~コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章13節~

 

引用聖句

「主において、常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」

~フィリピの信徒への手紙4章4節5節~

 

 

 

 

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