とにかく、物事を突き詰めたり、適当な生き方をしていたり、怠惰な生き方をしていたり、上辺だけしかやっていないのに、自分でやっていると勝手に判断したり、時間がない中でこれだけやれれば十分と判断したり・・・・
自分を正当化することはいくらでもできます。
実際に直接伝道もするときも、自分を受け入れてくれる人に話したり、興味を持ってくれる人に話をしたりすることは出来ても、大勢の前で、更には御言葉を受け入れることが出来ない人の前でも説得できない時があります。
その時に、いかに自分が悟れていないか、御言葉の力が弱いか、サタンに負けているかをまざまざと見せつけられることがある。
また、一日の予定を組んだとしても、時間通りに物事が進まず、むしろ予定の時間を過ぎてしまうことが多々ある。それは、頭の回転が遅いのはおろか、自分の力に慢心している証拠でもある。
いつまで、こんなことを繰り返しているのだろうか?
我々は、御言葉という成長する答えをいただいたのに、いつまでとノロノロとやっているのだろうか。全力で生きるから、成長するし、悟れるわけで。そして、結果的に時間ももっと出来るわけで。
肉に溺れている場合ではない。罪に溺れている場合ではない。
先に先に、もっと知りたい、もっと早く生きたい。そこに我々は喜びを見出さなければいけません。
周りをみて、自分を比較してはいけません。我々は、救っていく立場なのです。周りより、出来て当たり前。周りより、やって当たり前なのです。
我々は、世界を変えるのです。 ただ生きている人と比べている時点で、世界を変えられるわけがないのです。
世界を変える。つまりは、どこまでも高い愛を目指し走り続け、全力で生きなけば成長はないのです。
成長するから、楽しい、悟れる。人類を救えるのです。
引用聖句
2018年12月9日(日)
心と思いと精神を尽くして行うということは、つまりは突き詰めて行うということであり、根を詰めて行うということだ。
そして、そのように行う人が信仰の世界を極め、この世のどんな分野も極めることができる。
2018年12月29日(金)
主が願っている水準で行ってもいないのに、やっている気になって慢心してはいけない。サタンは常にあなたたちに「今よりも水準を上げなくてもよい」と誘惑し、「自分はやっている」と錯覚させているのだ。