御心を成している時間が我々が生きている時間

毎日を生きる中で、一日一日の終わりにその日を振り返ってみて、今日はいい一日だったとか、ダメな一日だったとか、勿体ないことをした一日だったとか、様々です。

ですが、我々は出来ることなら、毎日どこまでもいい一日だったとか、最高の一日だと毎日思えてこそ、本当の幸せだし、生きているということです。しかしながら、毎日を平穏に生きられることが、本当の幸せではありません。

毎日、愛に近づくこと、つまりは毎日悟りを増し加えていくことが本当の喜びであり、幸せです。

つまりは、どこまでも信仰の4本の柱をたて、聖霊に満たされ、悟り、神様と同じ考えと、心情、知能を持てるように近づき、どこまでも主の御心を成すために生きる日、生きた日を最高の一日だったと思え、毎日をそのように生きなければならないのです。

ですから、「あなた方は何をするにしても主の栄光を現しなさい」というのは、こういうことなのです。

一日を振り返ってみて、今日はいい一日だったと思えた日は、御心をゴールとした目的、目標があり、そのためにどこまでも信仰の4本の柱をたて、悟って、喜んで生きた日だと思います。しかし、きょうはだめな一日だったとか、無駄な一日だったとか感じた日は、やはり怠惰に生きたり、自分勝手な欲望にまみれて生きた日だと思います。

食べることで思い悩むな。着ることで思い悩むな。命は、食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。とあるように、我々は自分勝手に判断し、生きています。実際、食べることに悩んだり、着ることで思い悩んだ日は、とても虚しく、時間を無駄に過ごし、落胆すると思います。

食べることも主の栄光を現すために食べるのであり、自分の欲望を満たすために食べるのではありません。着ることも、主の栄光を現すために着るのです。自分の見栄や虚栄心を現すために着るのではありません。つまりは、願いや欲望一つとっても全ては、心の持ち方で、御心が罪かが変わってくるんのです。分かれるのです。

ですから、我々の人生は、主に買い取られたのですから、あなた方の体を使って神の栄光を現しなさい。とあるように御心をなすことだけのために生きる人間が、毎日を満たされていき、結局のところ、肉的なものもすべてあたえられるのです。

 

ラプトさんが、神様が必要なものは与えるから、自分から求めるなという御言葉はこのような意味があるのだと悟りました。

 

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