御言葉自体が神様

ヨハネによる福音書に 言葉は神であったとある。(ヨハネによる福音書1章1節~)

聖書を読み、ラプトさんの御言葉を聞けることにより真理を理解出来、神様という存在がハッキリとすることが出来ます。

だけど、御言葉に従わなくなったり、信仰の4本の柱を疎かにしたり、何より、御言葉が長い期間宣布されず、聞けなくなると、神様が遠く感じてしまう。

 

何でだろうか?

 

毎日のように、神様の言語を脳にインプットしていかないと神様が見えなくなる。考え心情が遠のく。

自分の意向通りに生きたら、神様が見えなくなる。

 

御言葉を書いたりしている時は、神様を意識できる。だけど、普段の生活や会社勤めをすれば本当に神様のことが吹っ飛ぶ。

 

でも、御言葉に従えば、絶対にラプトさんの口を通して、御言葉を聞き続けることが出来る。

従わないから、おかしなことになる。

 

御言葉を聞けて、従えること自体が祝福。恵みなんだ。そして、それによって、御言葉を悟り、神様を知り、その偉大さに心をうたれるのだなと。

どんなに辛くても、従えること。(キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、めぐみとして与えらえているのです フィリピ信徒への手紙1章29節~)

 

このことを決して忘れることなく、当たり前になりますように。

御言葉を聞き、従い続けることにより、中心者と神様の偉大さを悟り続け、心打たれ続けられますように。

 

朝の祈り会 2022年7月30日(土)
中心者に出会った人が中心者にどう接するかで、その人自身の運命も、全人類の運命も決まってしまう。2000年前も、イエス様に出会った大半の人がイエス様を軽んじたから、新約二千年間、全人類が苦しみの中で生きることになってしまった。

16分10~ 神様は御言葉を伝えて現れる。

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