我々の住んでいる部屋は、住んでいる限り、どんどん汚れていきます。
また、住んでいる限り、ごみがたまっていきます。食事をするために料理をすれば、ごみは当然出るし、埃などもたまっていきます。
また、生活のために必要なものを買えば、どんどん荷物は増えていきます。
必要なものは、当然買うべきですが、必要以上にものを買えば、場所がなくなり、それが生活の重荷にかえってなったりもします。
見栄のために高級な衣類を仮に手に入れたとしても、その時は良かったと思えるかもしれません。ですが、仮にそれを毎日着ても、幸せが持続することはありません。むしろ、その衣類が部屋の場所をとり、結局、重荷になるのです。
ですが、必要なものだけを部屋に置くことを意識して生きている人は、罪から離れたいと、悔い改めを習慣化出来ているようなものです。例え新しい荷物が増えたりしても、古くなったものや、必要でないものを処分したりして、その場所や綺麗さを維持し続けることが出来ます。
ごみ屋敷に住んでいるひとは、罪に溺れた状態が日常的になっている人のように、ごみにまみれた状態が普通でそれが良いと思っています。仮にその部屋を一から綺麗にしたとしても、逆に綺麗で落ち着かないのはそういうことです。罪を清めることが苦痛なのです。罪に溺れた状態がいい。罪に溺れいている生活がいいし、今までもそうしてきたからです。
だけど、綺麗な部屋を意識し、毎日掃除する人は、ごみ屋敷に住むなんて到底理解できません。
綺麗な部屋を意識している人は、埃一つがあろうものなら、すぐに目がつき、それを掃除して、取り除きます。罪から離れたい。霊魂を綺麗に保ちたいと日々心掛けている人はそのように、ちょっとした罪にも敏感に気づき、すぐに悔い改めをし、霊魂が清潔な状態を保ちつづけます。
どうしても、掃除をしていて捨てれないものがあります。だけれども、その荷物は神様の御心に叶うものでなければ捨てても良いのです。
また、それを自分の見栄や欲望のために捨てれないなら、まだ自分を捨てれていないということなのです。
オシャレをするなと言っているわけではありません。
必要なものは、主が与えて下さるから、追い求めるなということなのです。
年末の大掃除をして、不要なものを捨て、部屋が全く新しく、綺麗になって、喜びに満ち溢れたら、罪の一つから離れてよかったと思えた証拠と言えるのではないでしょうか?
引用聖句
ラプト朝の祈り会 2017年12月6日(水) 時とともに次元を上げていかない者は主から裁かれる。