愛したいから愛。つまりは、それ以外は、偽りだということです。
祈っていると、満たされたからいいとか、これだけ本気で祈ったからいいとか、何時間祈ったから、いいとか、全て自分本位の祈りを捧げていたと気づかされた感じが本日しました。
満たされたからいい→愛されたから満足
これだけ祈ったから、こんだけいのったから、→これだけ愛したから(人間的な愛でしかない)
すべて、自分勝手に愛しているのだと気づかされました。毎日、壁にぶち当たることの連続で、最近満たされていない。それ自体が信仰生活としては、赤信号、間違ではなくとも、次元を停滞、もしくは下がっているわけだから、サタンに負けているわけです。
昨年、2018年の頭から今年から、サタンとの戦いではなく、自分との戦いとラプトさんがおっしゃったが、今もそれは続いています。
自分との戦いは、負けた方が楽でいいと人間は思ってしまいます。
祈りの中で最近、満たされる毎日が続くと気を緩めてしまいます。そして、これぐらい祈っているから、いいとか、ある程度満たされているからいいとか、しかし、その自分本位の愛が、堕落の第一歩なのです。
恵みが多いからこそ、尚更気を引き締めなければいけないのです。
恵みが多いなら、 もっと恵みが多くなるように。実力が付いたなら、もっと実力が身につくように、愛には終わりがないのです。
ですから、ご利益信仰のように、満たされるから祈る。願いが叶うから祈るという、子供的な愛は、もう卒業しなければいけません。
愛したいから、祈る。なぜ、愛したいのか?
それは、主が愛で、愛してくださったから、恩を返したいから。人類を救おうと、頑張っている、千年王国をつくることを夢見ているから、その思いを共有したいなら、必然的にその主の超越的な考えに賛同して、愛したいと思えるはずです。
愛したいとは、つまりは、祈りたいということに行きつくと思います。
主の願いを叶えたい。そう思っているなら、祈ります。自分の願いではなく、主の願いを叶えたいから、その思いを共有して、微力ながら力になりたいと思うから、祈る、それが愛です。
このような愛で主を愛す人が、必ず主が共にして下さり、千年王国をつくり、偉大な大使徒となり、人々から敬われる人になるのでしょう。
母親が、子供に対して弁当を毎日作ることを、弁当を作らなけばいけないとします。
その弁当を毎日作ることを苦に思っているなら、それは愛ではないということです。
作りたいと思っているなら、それは愛です。
愛はやらされているうちは、何も意味がないし、いずれそれが形となって、大きな差となって、愛する人と差が出てしまいます。
主を愛する人は、必ず祈ります。 祈らないなら、嘘です。
引用聖句
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既に叶えられていうことも分かります。