愛の次元を上げるということ。では、なぜ人それぞれ、愛の次元が違うのか?つまりは愛の満足度が違うということ。
では、なぜひとそれぞれ愛の満足度が違うのか? つまりは、ひとそれぞれ器の大きさが違うからではないのか。
100mlのコップには100mlの水しか入りません。だから、100mlのコップは100mlの水が入れば十分です。例え、それ以上注いだとしても、こぼれてしまい、それ以上容量を増やすことは出来ません。では、200mlのコップではどうでしょうか? 言うまでもなく、100mlの水を注ぐことは出来るし、200mlまで入れることが出来ます。
つまりは、100mlの器しか、持ち合わせてはいない人は、100mlの愛の次元でしかないし、100mlの愛を受ければそれで満足できるのです。それ以上愛を与えたとしても水がこぼれるように、悟れないし、理解出来ないのです。
では、200mlの器は、どうでしょうか?200mlの水まで入るのに、100mlでは物足りません。少なく感じます。つまりは、愛が満ち足りていないのです。200mlの器には、200mlの水を入れることが満ち足りることです。つまりは、200mlの器の人には、200mlの愛で満足します。100mlの器より、愛の次元が高いため、多くの愛を悟り、愛の満足度を知っており、200mlの水を注げないと満足出来ないのです。
このように、愛の次元は、ひとそれぞれ違います。愛の次元を上げたとは何か?冒頭で満足度の違いや、器の大きさが違うと述べたが、結果的には、多くを悟り、霊の次元を上げた、霊を清めた、つまりは神様に近づいたということなのです。
現在、都会では年老いた人たちが、一人になり、寂しくて何をするかというと、ペットを飼ったりするといいます。それはなぜでしょうか? それは、言うまでもなく、愛の次元が低く、簡単に手に入る、人間より次元の低い動物に愛を求め、それで心を満たそうとするからです。
何で、我々は一生をかけて愛を目指さないといけないのに、自分より、下の次元のものを愛そうとするのでしょうか?それは、楽だから。楽に少しでもいいから、愛がもらえるから。でも、それは神様の世界では通用しません。神様は人間に対して、愛を与えたいと思っている方です。それを足蹴にして、簡単に手に入る愛、次元の低い愛を求めて、それで満足させようという安易な考えは、神様の世界では、怠惰な考え、つまりは罪になってしまうのです。
今いる次元から抜け出し、上の次元に上り続けることは大変です。もがきと努力が求められます。時には苦痛を伴います。
だけれども、それをやればやっただけ必ず神様の世界では待っています。やればやっただけ、愛が来ます。悟れます。喜べます。
我々は、一生をかけて、勤勉に、もがいでそれぞれに与えられた愛の道を全力で走り抜けなければならないのです。そして、それを何よりの楽しみ、人生における最大の楽しみとしなければならないのです。
楽しみとなってしまえば、ある意味楽なのです。それを必然的にやるからです。
引用聖句
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 ルカによる福音書10章25節~28節
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。マタイによる福音書25章29節
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の図る秤(はかり)で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」マルコによる福音書4章24節25節
知らないのですが。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。 コリント信徒への手紙第一6章19節20節
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 エフェソ信徒への手紙第三16節~21節