愛を悟り続けるということ(もらうことばかりでなく、与える愛。それを喜びとならなければいけない)

聖霊がうけられない。それは、信仰生活をしていれば誰でもぶつかる問題です。

なぜなら、人間の考える愛と、神様が考える愛は天と地ほども違うから。

では、どうすれば、その神様の愛を理解し、聖霊を受け続けることが出来るのかというと、神様と同じ考えと心情を持ち、神様を愛し続ければ、絶対に聖霊を受け続けることができます。これだけは、決まっているのは、人間がこのように愛せば必ず、神様は愛してくださいます。人間が神様と同じ考えと心情をもって、愛せば必ず愛が決ます。 ですから、自分が神様を愛しているといいながら、聖霊を受けられないなら、何かが間違っているということです。

ただ、それだけです。

自分勝手の考えや思いで愛したり、偶像を拝むように形だけ愛したり、自分の都合のいい時だけ愛したり、苦難の時にだけ愛したり、喜びの時だけ愛したり、これだけやっているから、愛してもらえると勝手に判断したり、聖霊を受けられないと苦しいから愛したり・・・・

 

自分の人生を振り返ってみても、たくさんの愛をもらってきました。しかしながら、そこばかりに執着しすぎて、もらうことばかりに執着しすぎて、もらってばかりで、与えることをほとんどしなかったような気がします。

また、「心と思いと精神を尽くして愛しなさい。」マタイによる福音書22章37節 とあるように、神様は心を見る方です。

私たちは、心を見ず、世の中ばかり見ています。つまり、目に見えるものばかりに注目します。

その時点で神様と私たち人類の愛に対する考え方は、180°違うのです。

この二つをまとめてみると、

・神様は与える愛。 人類は受ける愛。 そればかりにそれぞれ注目します。

・神様は心の愛をみます。 人類は、見える愛をみます。 それぞれそればかりを重要視します。

・神様の愛は、無限に成長することを望みます。 人類は、最初だけ、その愛をつかむときだけ全力を注ぎます。

 

愛をどこまでも光り輝くものにさせるためにも、どこまでも愛を悟り続け、どこまでも次元を上げなければなりません。

真の愛は終わりがないのです。つまりは、与える愛には終わりがなく、その与える愛には限界がないのです。

愛を悟り続けること。それ自体が愛なのです。愛は、1回与えたら終わりではだめなのです。

聖霊の恵みを受けた。どこまでも罪を犯しながらも、救われたのなら、一生をかけて罪を償い、愛を返していくこと。それが、使命。そしてそれが楽しくて、生きがいとどこまでも毎日思い、実践し続けることが大使徒となるのでしょう。

 

引用聖句

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。マタイによる福音書10章39節~

このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。 マタイによる福音書20章1節~

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。ヨハネによる福音書15章13節~

あなたがたもこのように働いて弱いものを助けるように、また、主イエス御自身が「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました 使徒言行録20章35節

すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。ルカによる福音書12章48節~

ラプト朝の祈り会 2019年3月26日(火)
聖霊を受けた人が救われた人であり、主が導こうとされている人だ。聖霊を受けられない人は救われていない人であり、主が導こうとされていない人だ。だから、どこまでも豊かに聖霊を受けられるようにもがき、努力しなさい。

ラプト朝の祈り会 2019年3月28日(木)
主はロボットではなく、心を持った方だから、機械的に主を愛しても喜ばれない。常に主の心情を慮り、主の心情を察して、主の心を喜ばせる者だけを喜ばれる。聖霊を受けられる人とはそのような人だ。~重要~ 9分40~

ラプト朝の祈り会 2019年3月29日(金)
我々人類は、ただ主を愛するという一つのことを究めれば、それだけで救われ、栄えることができる。だから、あれこれと他の余計な苦労をすることなく、ただひたすら主を愛することだけを追求して生きる者となりなさい。

 

 

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