愛を悟り続けるということ(情欲や恋心は愛ではないということ)

信仰生活をしていると、神様から愛されることばかりに、重点を置きがちになっていた。

愛することをなおざらにして、愛されること、聖霊を受けることばかりに重点を置いていた。

そして、しまいには、愛はこういうものだ。愛されることはこういうことだと自分勝手に判断して、情欲や恋心すら、愛ではないかと自分勝手に判断してしまうようになった。つまりは、自分勝手に愛というものを作り上げようとした。

自分の考えは、罪、サタン。情欲や恋心は、自分発信で相手のことを考えていない。つまり、どこまでも肉的。だから、どこまでも自分の事しか考えていない。

愛は、どこまでも理知的で、愛を与えるもの。どこまでも霊的。だから、相手の事しか考えていない。

我々人類は、恩を仇(あだ)で返すように、どこまでも神様の愛に対して、そっぽを向くどころか、反旗を翻してきた。

それでも、神様は、イエス様を送り、中心者を送って下さった。

我々一人一人に対しても、同じくどこまでも反旗を翻してきたが、それでも哀れみ深く、忍耐強く、一つも疑わない偉大な愛によって、愛されてきた。

 

愛は、この世にはないと信じていた。だけど、あった。

もう、道を反れてはいけない。反旗を翻し、自分勝手に生き続けたが、それでも忍耐強く、疑わない愛により、我々人類を導いて下さった。

人間同士で愛しても、愛にはなれない。どこかで、絶対に壁にぶつかる。当たり前の事です。愛は人間からは来なく、神様からしか来ないのです。

真っすぐに、愛の道を走り続けましょう。

 

引用聖句

「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と予言者は、この二つの掟に基づいている」マタイによる福音書22章37節~40節

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。ヨハネの手紙第一4章7節、8節

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべても忍び、すべてを信じ、すべてを望み、全てに耐える。コリント信徒への手紙第一13章4節~7節

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。ヨハネによる福音書15章13節

放蕩息子のたとえ ルカによる福音書15章11節~32節

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなた方の父が哀れみ深いように、あなた方も哀れみ深いものとなりなさい。ルカによる福音書6章35節~36節

 

 

 

 

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