今日は、休みだから、一週間仕事を頑張ったからという理由で、自分に負けたとする。怠惰な生活をしたとする。
確かに休みなのかもしれない、仕事を頑張ったのかもしれない。でもそれは、自分勝手に決めたことで・・・。
そもそも、タイトルにあるように、自分に負けることを善しととした、つまり、怠惰な生活を楽しみとしていることに、問題があることが悟りです。
仮に、毎日が休みの生活が出来たとしたら、それを楽しみにしているから、怠惰な生活を毎日してしまうわけで、自分に毎日負けてしまうことになるからです。
自分に負けて、自分勝手な生活をしたとする。そしたら、絶対に神様と波長が合うわけがなく、悟れないし、愛にはなれません。
休むことと怠惰に生きることは違います。
我々は、肉体がある以上肉体を休ませることも大事です。休むことも仕事の内という言葉があるように、しっかりと休息をとることも主に対しては必要です。
怠惰は、無駄な生き方。つまりは、自分勝手な生活をしているということです。
神様は、前回にも書いたように、愛の方。だから、人間は、信仰生活をしながらも罪を犯すのはご存知です。
信仰生活を始めた途端に、罪を犯したら裁く!なんて非情な方ではありません。神様がもしそうだとしたら、誰一人として救われてはいません。
信仰生活をしていても、大なり小なり罪を犯します。だけれでも、それでは愛にはなれません。
だからこそ、この世の中では、向上心とか、モチベーションとかいいますが、神様の世界では、どれだけ神様に縋り付くかが核心です。
愛になりたいなら、結局は神様にすがり続けるしかないのです。
自分の足りないところを埋めて下さると信じ求め続けることなのです。そうすれば、必ず変わると信じて。
引用聖句
わたしは、自分のしていることが、わかりません。自分が臨むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、私の中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 ローマ信徒への手紙7章7節~
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 ローマ信徒への手紙8章6節
霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。ガラテヤ信徒への手紙5章16節
主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。フィリピの信徒への手紙4章5節~6節
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたががたのことを心にかけていてくださるからです。ペテロの手紙第一5章7節