罪を日々、悔い改めることは、大事。だけれども、日々愛を悟り、愛になっていかなければ、無に等しい。

完全な主なる神に、なれるように日々、悔い改めるのは、当然大事。なぜなら、神様は罪の要素が我々人類とは違い全くないから。

だから、日々悔い改めて、完全になれるように努めなければなりません。

だけれども、なぜ、悔い改めるのかを我々は、理解しなければなりません。ただ、自分勝手な願いを叶えてもらおうとするために、悔い改めようとしていないか? 神様に認められたいから、罪をただ単に形式的に祈っていないか? 自問自答しなければなりません。

神様の人類を救うという願いを叶えるため、そのために微力ながらも力になりたい。だから、愛になって、神様が共にして下さって、御心を成したい。その気持ちがなければ、その悔い改めも無に等しいのです。

我々が、肉体の健康を保つために、健康的な食生活を送らなければなりません。御言葉で出ていたように、体に悪い、酒、タバコ、食品添加物、炭酸を取らなければ、健康的になれる。そんな訳はありません。確かにその4つを取らないのも健康の一つです。また、食べ物だけでなく、健康な空気を吸ったり、キレイな水分をとることも大事です。

だけれども、その4つを取らなかったり、健康な空気を吸ったり、綺麗な水分をとるだけで、あとは何もしなくても健康を維持できる。そんな訳はありません。

このように、罪を悔い改めるのは、信仰の基本ではあるけれども、我々は愛という最高の賜物に近づこうと、努力し上を目指さなければ、悔い改めやその他の行い全てが無だということです。

愛がなければ、信仰の4本の柱をいくら立てても、それは形式的で、無駄な行いとなってしまうのです。

逆に言えば、愛さえあれば、全ての行いが、益となるのです。

 

引用聖句

そこで、わたしはあなた方に最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 コリント信徒への手紙第一13章1節~3節

何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。 ペテロの手紙第一4章8節9節

憎しみはいさかいを引き起こす。愛は、全ての罪を覆う。箴言10章12節

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