御言葉で、自分中心の罪について語られていた。
自分中心の罪は気づきにくい。 自分の考えが正しいと思いこんでいるだけかもしれない。 自分の間違いを認めたくないだけかもしれない。
そして、それを指摘してくれる人は、大人になれば、まずはいない。ましてや、それを気づく人もいないから。 罪そのものを理解している人がいないから。
自分中心の罪とは何だろうか? つまり、一言でいうなら、
イエスは言われた。「『心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と予言者は、この二つの掟に基づいている。」 マタイによる福音書22章37節~40節
この戒めを守らない者は、自分中心で生きていることになる。また、
イエスはまことのぶどうの木
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の掟も守るなら、私の愛にとどまっていることになる。これたのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしが、あなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。とものために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることをおこなるならば、あなた方はわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしは、あなたがたを友と呼ぶ。~互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」 ヨハネによる福音書15章9節~17節
ですから、これらのことを要約すると、神を第一に愛して、第二に隣人を自分のように愛していれば、自分中心ではないから、罪ではないということなのです。
そして、それでこそ、その人は愛になった。つまり、神になったということです。
根本が分かった。根っこが分かった。真理が分かった。愛が分かった。
あとは、どれだけ我々がその愛を毎日、全力で達成しようとするかにかかっているのです。
そして、その愛になっているかの基準は、
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。ヨハネによる福音書15章11節
にあるように喜びで希望で満たされていれば、罪から離れ、愛で生きている、正しい生き方をしているということなのです。