我々は、生活の中で罪を犯します。何か、物事をするときに失敗する時があります。振り返ってみると、あの時深く考えなかったり、知識が足りなかったり、時間がないことを言い訳にして思慮深く考えず安易に物事を進めてしまったり、楽をしようとかしたりしたときに、後で必ずしっぺ返しがきて、失敗してから反省する時がある。失敗して反省すればよいが、また失敗する。なぜ同じ失敗を繰り返すのでしょうか?これは言うまでもなく、失敗を失敗と認めず、反省をしているようでしていないのです。例え認めたとしても、次にどう生かすかとか、どうすれば同じ過ちを繰り返さないかと考えますが、それが出来たとしても失敗します。つまりは、認めたとしても、反省したとしても、根本の自分の考え方、ここでは、失敗した罪の考え方が変わらなければ、根本的な解決にはならないのです。
根本の罪の考えがかわれば、つまりは愛の考えに変えることができればその失敗は犯すことがなくなるということなのです。
ここでの愛の考え方とは何でしょうか?
聖書に何をするにしても思慮深く生きなさいとあります。また、緊張の帯をしめていなさい。ともあります。
つまりは、深く考え、常に気を引き締めていなさいということです。
なので、愛の反対の考え、安易に考え、行動し、気を緩めたときに罪を犯します。また、その時をサタンは狙っています。
戦いのときに、敵も相手の隙を狙ってきます。そこを1ミリでも与えてはいけないのです。
結局のところ、妥協することが楽しいとか、楽でいいとか、そういう考えが1ミリでも心に残っている人は、いずれサタンに騙され、信仰の道から外れてしまうということなのです。
ですから、どこまでも愛を愛し、真理を愛し、どこまでも愛のために妥協せず、勤勉に生きたいと思える人が、結局は偉大な大使徒になるわけです。
愛を愛し、勤勉にどこまでも生きる人が神様が導かないわけがなく、必然的に偉大な大使徒になるのです。ならないわけがないのです。
引用聖句
RAPT有料記事VOL190 適当にやっても全力でやっても、同じ結果だと思うな。その違いは歴然としている。
一日に一時間しか祈らない者と、一日に三時間祈る者とでは、やはり霊的な成長のスピードが全く違ってきてしまう。
一日に一時間祈る人と、一日に三時間祈る人とでは、三年後、十年後、二十年後に見てみると、その成長の差は歴然としてくるに違いない。
では、どうして一日に一時間祈る人がいるかと思えば、一日に三時間祈る人がいるのかというと、もちろん、その人の悟りの次元の違いもあるだろうし、様々な能力の違いもあるだろうが、結局のところ、最終的にはやる気の問題なのではないか。
つまり、どれだけ自分が成長したいと強く望んでいるのかの違いだ。
自分が早くラプトと同じ次元に上り詰めたいと強く望むなら、その人はラプトと同じぐらいの条件を立てようと最初からもがくはずだからだ。
自分の成長にどこまでも貪欲な者は、どこまでも懸命に熱心に義の条件を立てるに違いない。
しかし、自分はもうこれぐらいでいいとか、これ以上成長する必要はないとか、自分にはもうこれ以上成長することはできないと思って諦めたりする者は、熱心に条件を立てることができない。
その努力を怠る方向へと心が流されていってしまう。
そうではないか。